臨床エッセイ 夢見ることとして映画を見ること:アリーチェ・ロルヴァケル監督『墓泥棒と失われた女神』から

 アリーチェ・ロルヴァケル監督の2023年の映画『墓泥棒と失われた女神(原題La Chimera)』はとても美しい映画である。それは舞台がトスカーナ地方で,まばゆい光に満ち溢れているからだけではなく,私たちを夢見ること(dreaming)に誘ってくれるからであろう。

 アリーチェ・ロルヴァケルはイタリアの女流俊英監督であり,前作の『幸福なラザロ(Lazzaro felice) 』も高い評価を得ている。映画はしばしば夢見ることに擬えられるが,そもそも映画は夢と夢見ることをモデルとしして生まれたので,それは当然のことと言えるだろうが,この映画は,映画を見ることが夢見ることに近接していることを私たちに再認させてくれるだけでなく,私たちがなんで夢を見るのか,なんで映画を見るのかを考えさせてくれる映画であると言えるだろう。

 さて,映画は電車の中の情景から始まる。眠っていた主人公アーサーが目覚めると,若い女たちから声をかけられるが男は素っ気ない。女たちは反応が乏しいので興味を失っていくが,どうやら彼は刑務所から釈放された帰途らしい。でもこれは夢なのか現実なのか。彼は小汚い恰好をしているし,ぶっきらぼうで人好きしない。やがて,それは彼が刑務所から出たばかりだからではなく,深い悲しみを抱えているためであることが分かる。トンバローリと呼ばれる墓泥棒は,イタリアでは昔はよくあった稼業らしい。駅に着くと墓泥棒仲間が待ち構えていて彼を誘ってくるが,彼はそれを振り切って,恋人ベニアミーナの実家を訪ねる。そこには恋人の母親フローラがいて,恋人を探してほしいと頼まれるが,何か手がかりがあるわけではない。その後も墓泥棒仲間がまとわりついてくるので,結局彼はまたその稼業に戻る。彼にはなぜかイタリアの先住民であるエトルリア人の墓のありかを見つける特殊能力があるので,重宝される。死後の世界を信じていたエトルリア人たちは壮大な墓を築いたことで知られている。アーサーはたまに墓探しをするとき以外の大部分の時間は,ぼんやりと夢を見て過ごしているように見える。アーサー以外にベニアミーナを探しているのは,フローラだけだが,彼女は娘たちから,もう諦めたら,と諫められている。年が明けて新年の祝賀行事とかもあるが,アーサーにとっては心躍ることは何もない。ところが,その晩,アーサーは地底から強く呼ばれる力を感じて,そこを掘り返してみると,美しい女神像を発見する。一緒にいた墓泥棒仲間はこれは高く売れそうと欣喜雀躍するが,アーサーはその女神に一目で魅惑される。すると,警察がやってきた,と知らせが入るので,彼らは慌てて逃げざるを得ない。ただ,女神像は大きくて持っていけないので首から切り落とされ,アーサーは首だけを持って逃げることになる。しかし,警察は追ってこない,彼らは財宝を横取りしようとする偽警官だったのだ。そしてそれを手配したのは密売組織の元締めだった。宝物を横取りされたことに腹を立てて,船上で行われていた密売組織のオークションに乗り込んだ墓泥棒たちだが,アーサーは,お金目当てでしかないそこでのやり取りに絶望して,持っていた女神の首を水の中に放り投げてしまう。それはもう二度と返ってこないだろう。その後で,アーサーは,現実の世界で生きてみようと試みるが,全然馴染めず,うまく振舞うことが出来ない。しかも彼の特殊能力も失われたようで,彼はまた洞窟を掘り当てるが,そこに入った途端に入り口が塞がれてしまって,土の中に閉じ込められてしまう。しかし,そこで彼はようやくベニアミーナとの再会を果たして微笑む,というものである。

 実際のストーリーはもっと複雑で余白もあり,いろいろな要素が絡み合って,様々な連想を引き起こす。もっとも監督は,統一感を持つことを目指しているわけではない。原題に用いられている「キメラLa Chimera」という言葉は,イタリア語では幻想という意味だが,ギリシャ神話に登場する怪物の名前でもあり,異質のものの合成という意味合いもあることがあらわすように,様々な異質なものを合成した重層的な物語を目指したと監督は語っている。フィルム自体も,35ミリで撮影されたり,16ミリが用いられたり,手持ちのカメラが使用されたりしているが,それがうまく機能しているかどうかはおいておくとして,わざと異質なものを混ぜたり,フレーム自体を揺さぶったりすることで,そこから新たな効果が生まれることを狙っているようである。映画には監督の身体性も関わっていることを認識させられる場面である。この映画全体を一つの夢を描いたものだということも一つの見方として出来るが,夢と幻想と現実とが入り混じっている,といった見方も出来る。実際,夢は現実ともつながっており,どこまでが現実で,どこからが幻想なのか夢なのかわからないような描写がなされているが,敢えてはっきりと述べていないのだろうと思う。私たちにも,ベニアミーナは亡くなっていることは分かるが,フローラはそのことを分かっているのだろうか,その娘たち(ベニアミーナの姉たち)はどう思っているのだろうか,あるいは,そもそも彼女たちは実在しているのだろうか,などと謎が次々と浮かんできて,私たちは考えさせられる。それではアーサーは,いったい何をしているのだろうか。ベニアミーナを生き返らせたいのだろうか,彼女の名残を見つけたいと思って,死後の世界までも訪ねたいと思っているのだろうか。彼女がいないということをわきまえて生きたいと思っているのだろうか。自分も死にたいが,死ねないので呆然と生きているだけなのだろうか。あるいは死に場所を求めて彷徨っているのだろうか。自分だったらどうなのだろう,とそこでも私たちは考えさせられる。アーサーの振る舞いは,エントロピーゼロを目指しているようにも映るが,そう考えると,アーサーを動かしているのは死の欲動ということになるのかもしれない。するとアーサーは生と死の境目にいるということになるだろうが,それだけではなく,彼は,現実と幻想,現在と過去,聖と俗,都会と田舎,等々様々な二項対立の間にいる。そして夢は中間領域に属するものとして,そのようなアーサーのどっちつかずとも言えるあり方とものすごく馴染んでいる。映画ではアーサーの主観的映像が多用されるので,私たちはアーサーに同一化しやすいが,演じているジョシュ・オコーナーの風情は,恋人を亡くしたらこうなるだろうと思える役にぴったりで,弱くて煮え切らないアーサーは,私たちも同じだという思いを強化する。そこから私たちは自分たちが抱えている喪失のトラウマを連想するだろうし,自分たちがどうやってそれを抱えて生きてきたかについて思いを巡らすだろう。夢を見たあとで連想しているときと同じ経験である。夢はいくつもの謎を投げかけてくる。私たちは,その謎の答えを求めて,夢を考えていくが,そういう謎の答えは簡単に出るものではない,むしろ謎が謎を呼んで,更に謎が深まることの方が多いだろう。結局,私たちはそこで立ち尽くすしかないのだが,この映画もそのような夢見る経験に私たちを引き込む。

 映画の冒頭でグルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』の序曲がかかるのだが,アーサーはオルフェウスに擬えられているところがある。もっとも,アーサーは,オルフェウスのように自分の歌の力を信じて,黄泉の国にまで赴いてエウリディーチェを連れて帰ろうとはしない。彼には,古代人の墓のありかが分かるという特殊能力があるが,たいていは自分の殻に閉じこもって,ぼんやりと嘆き悲しんで,ベニアミーナの姿を追い求めているだけのように見える。フロイトは,『喪とメランコリー』の中で,喪失にあったものはなべてナルシシスティックな傷つきを味わうが,ナルシシズムのくびきから逃れることが出来にくい者ほど,病としてのメランコリーに捉われてうつ病になると述べており,対象との同一化が著しく,自分を見捨てた対象への怒りが強い場合には,自殺のリスクが高まることを指摘している。アーサーは深く嘆き悲しんでおり,死ぬことも厭わないようだが,その一方で,このような創造的な夢を見ることが出来る,という点でフロイトが定式化したものとは少し違うかもしれない。対象が失われているからこそ夢が見られる,という視点は,対象喪失を別の側面から照らす。フロイトが『夢分析』に提示した「お父さん,どうして僕が焼けているのに気づかないの?」という夢を連想するのは私だけではないだろう。ここで夢は願望充足であると言ってしまうと,大切なものが失われるように思われる。

 アーサーとオルフェウスの一番の違いは,神話によれば,オルフェウスがエウリディーチェをよみがえらせるのに最終的に失敗してから,むしろ躁的に歌い続けて,最後は女たちに八つ裂きにされるのに対して,アーサーはそのような行動は何もせず,ベニアミーナを思わせる女神像を手に入れても,ピグマリオンのように執着してそれを生き返らせようとするわけでもなく,それを水中に投げ捨てた後は,より深い哀しみにくれることである。もっとも本当にオルフェウスがエウリディーチェを地上に連れ帰ることに成功してしまったとしたら,どういうことが起こっただろうか。石井裕也の映画『本心』では,AIを用いて死んだ人を復元することが可能である。しかし,失ったものを本当に生き返らせることは出来ないことをアーサーは理解している。いずれにせよ,アーサーは夢見るだけであり,それがこの映画という形で残ったということである。キメラという言葉には,私たちが手に入れたいと望むが決して手に入らないもの,というニュアンスもある。望んでも手に入らないことは,私たちの人生にとてもありふれたことである。それを私たちはどうすることも出来ない。ありのままで受け入れるしかない。私たちはそういう何もできない自分と対峙しなければならない。私たちに出来るのは夢見ることくらいである。そういうことで,この夢は,私の夢ではないのに,まるで私の夢であるかのようなのであり,深い共感を呼ぶのである。

 それ以外にも,この映画では本筋と関係ないところで,いろいろな隠喩が張りめぐらされており,そこから新たな疑問が生じ,そこから様々な連想が浮かぶことも夢見ることと共通している。それは例えば,アーサーがイギリス人なのは,グランドツアーを連想させることであるとか,スペイン人の女イタリアは,フローラから歌を習っているが,どうしてモーツアルトのK418(オペラの挿入歌で『おお,神よ,あなたに明らかにしたい』というもの)の練習をしているのか,とか,吟遊詩人はどこにいるのか,等々である。答えが出る疑問もあれば,謎のまま残る疑問もある。

 このエッセイの冒頭で,私は,この映画は,映画が夢見ることと類似していることを再認させてくれる映画であり,何で夢を見るのか,何で映画を見るのかを考えさせてくれる映画だと述べた。ボラスは,『夢の知恵』というエッセイの中で,昔から人は夢を通して人生を知ろうとしてきたことを指摘し,夢は私たちに謎を投げかけるものであり,謎は連想を呼ぶ,と述べている。連想は人それぞれだろうが,私たちは連想をすることによって人生について少し考えることが出来る。夢とはそういうものである。ビオンは,私たちは実際には日中に夢見ているのであるが,それが夜になると夢になる,と指摘した。彼の考えでは,思考することは夢見ることである。一方,映画はそもそも単なる娯楽なので,いろいろな見方が可能なのは当然のことである。しかし,なかには私たちに自分のことを考えるように誘う映画もあり,それが成就した場合,その映画は美しいという印象を残す。ロルヴァケルのこの映画は,ありふれた喪失のテーマを扱っているものであるが,アーサーの嘆きも躊躇いも,共感しやすく,同一化しやすいものであるし,映画のフレーム自体が揺らぐので,私たちの思考も揺さぶられていく。私たちは皆,大なり小なりトラウマを持ち堪えて生きていくしかないのだが,繰り返しになるが,それがどうにもできないものであることも皆知っていることである。そういうことを私たちは知っているからこそ,私たちは夢見るのである。そして,そういう私たちの思いを含めて映像化しようとしたのが,この映画であるということになる。私たちは夢も見るが,映画も見て夢見るのである。私たちは,アーサーのように夢見ることになる。そして,結果的に,世界がどのようなものかを少し理解することが出来,世界の見通しが良くなる。

(文責:館 直彦)

このページのトップに戻る