臨床コラム ヴァーチャリティのゆくえ
ヴァ―チャリティというと科学技術の進歩に伴ってより精巧に事物を模写した製品(外的現実)を思い浮かべるのが一般的でしょうが,私は人のこころ(精神活動)がヴァチュアリティに開かれているからこそ成り立つ遊びや宗教的体験というスピリチュアルな現象(内的現実)について書いてきました。人が自分の心の中に仮想空間を生き生きと作り出せるのは,そもそも言語という物理的実体のない道具によって現実と接しているからでしょう。
言葉自体がヴァーチュアルなのですね。真意のこもった言葉,嘘くさい言葉,口先だけの言葉があるように,言葉はそれを伝える人の人柄への評価など受け取る人と発する人との関係によってその働きや価値が規定されますが,言語表現そのものには一定の決まりがあって,特に象徴的な表現法(メタファー)には人が体と心をもって生きているが故の共通性が異なった言語体系間においてもみられることに注目している研究者もいます。政治的プロパガンダの世界では「日本」や「大阪」を「前に進める」という「すぎょい」人たちが登場しますが,「前進」など「前向き」という方向は肯定的な意味を伴っているからでしょう。ところで,私が「すぎょい」と評するのは,物理的でないものを物体のように表現していて,無理なのですがそれで通ってしまうという言語表現の特性に感心しているからでもあります。「すぎょい」は魚類研究者でもあってテレビで人気のあるさかなクンという人が「すごい」の「ご」などを魚にかけて「ぎょ」に変形させた造語ですが,この「すごい」という形容詞は「すごく○○」という副詞だったものがいつの時代かに形容詞として使われるようになったということです(大野晋:『日本語練習帳』)。だからでしょうか,この「すごい」は文脈によってその意味が変わるので面白いのです。
物理的な実体,人の身体や身体運動などは空間的に把握でき目に見えるものなので人の気もち(喜怒哀楽などカテゴリー感情)など目に見えないものを表現するときにメタファーとしてよく使われます。「前向き」が肯定的,昂揚的な感覚をもたらすのに対して,後方はネガティブな感覚と関連しています。「うしろ向き」,「後塵を拝する」,「うしろめたい」などの言葉が浮かびます。「こころがずたずた」,「引き裂かれる思い」,「気持ちが沈む」などは物理現象で表現したものです。これらメタファーによってどんな気持ちをどの程度もっていると伝えようとしているのか聞き手は推し量ることができます。それでも,そのものではない表現行為であり,それを受け止める聞き手の言語体系もあってコミュニケションがうまくいかないことはどこの世界でもありますね。
(文責:弘田 洋二)