臨床エッセイ 『憐れみの3章 Kinds of Kindness』と『不気味なもの』
Freudは1919年に『不気味なもの』というテキストを刊行している。このテキストは,誰もがおぞましいと感じて避けたいと思うのだが,何故か引き付けられてしまうものについて述べたものである。それはFreudによれば,性や死に関わるものであり,彼の分析では,そうしたものは本来なじみの深いものだが,人間の本性,人生の真実につながるので,私たちにそのような反応を引き起こす。確かにそういうものはあるのだろうが,テキストの中でFreudはホフマンによる小説『砂男』を取り上げて,この小説が何故,不気味な印象を残すのかを分析している。Freudの説明では,『砂男』が不気味なのは去勢不安を引き起こすからなのだが,読んでみるともっと原初的な不安が掻き立てられるように感じられる。それは狂気の不安なのかもしれないが,不気味なものがどのようなものなのかをもう少し探索する必要がありそうである。最近公開されたヨルゴス・ランティモスの映画『憐れみの3章』(2024)は,そのような題材を扱った映画と言い得るので,ここでは『憐れみの3章』を通して,不気味なものの理解を深めたい。
ところで,どの映画も,人生の一断面を描くことがその目的だということは出来るだろう。その映画の中で描かれるのが,本当に些細な日常の出来事であっても,生きるか死ぬかの重大な問題であっても,それは同じであると思うが,ギリシャ生まれであるヨルゴス・ランティモスは,これまでもこうしたテーマを真正面から扱ってきたことで知られている。前作の『哀れなるものたちPoor Things』(2023)は原作があるので,それがフレームになっていると言えるが,この『憐れみの3章』は原作がないので,製作者たちは自分たちが思ったままのことを映画にしている。それは言い換えると,無意識のファンタジーが露呈している,ということになるのだろうが,その結果として,世間の評価は,奇想天外とか,不条理とか,何を言いたいのかがよくわからないとか,エログロナンセンスだとかいう不評が多く,中にはおぞましいものを見させられたといった評も含まれる。一方,とてもブラックなユーモアにあふれていて,思わず笑ってしまった,という評もあったりするが,人生の真実を突き付けられたら笑わずにはいられないこともあるかもしれない。もっとも,それなりに観客を集めているのは,少し変わっているが有名な監督が,アカデミー賞俳優を集めて作った映画だから,というだけではなく,アピールする点があるからだろう。そのくらい,見たくはないが,見てみたい,という映画なのである。
さて,映画『憐れみの3章』が,それぞれが独立した三部構成で出来ていることや,それぞれの章で,同じ役者が違った役で登場することは,パンフレットにもあったように,ギリシャ悲劇の三部作構成を,ほのかに連想させるものであることは間違いない。また,扱われたテーマが人生に関わるものであり,生々しいうえにおぞましい点も,ギリシャ悲劇と共通する部分だろう。この映画を見て,心地よい後味を抱く人はあまりいないだろうと思うが,悪夢を見た後のように,その余韻は後々まで残る,という点も,人生を描いたものだからである,と言い得るかもしれない。ところで,この映画は,支配と欲望,愛と服従,信仰と妄信をめぐる物語である,と製作者たちは述べているが,ここでは精神分析的な視点から,この映画で描かれているものを解釈してみることにする。精神分析では,基本的に全てを親子の物語として読み解く。(ただ,ここでは映画のストーリーや内容についての,ネタバレ的な説明は避けている。詳しく知りたい人は実際に映画を見るか,公式サイトなどを参照してほしい。)
映画は3話のオムニバスとなっていて,お互いに関連がないストーリーだということになっているが,精神分析的に見ると,3話とも,役は異なるがジェシー・プレモンスとエマ・ストーンの二人によって演じられる同じ主人公たちの一連の物語である。二人とも見かけは大人の役であるが,内実は子どもの物語なので,ここではボクとワタシと呼ぶことにする。3話ともに,父親的な役としてウイレム・デフォーが出てくるのに対し,母親は存在自体が明白ではなく,第2章では全く出てこないが,第3章は母親を探す物語であるとも言える。母親がそういう存在として描かれている点はとても興味深い。
第1章は,「R.M.F.の死」という題がついている。確かにR.M.F.と縫い取られたシャツを着た人物が冒頭で登場し,終盤でひき殺される。しかし,そのことは映画で描かれている物語の大部分とはあまり関係がなさそうである。第1章は「選択肢を奪われ,自分の人生を取り戻そうと格闘する男」の物語となっているが,精神分析的に読み解くならば,父親は,子どもの人生を支配している,ということである。ボクはずっと父親の言うとおりに生きてきたのだが,R.M.F.を事故を装って殺せと言われて怖気づく。しかし,ボクはどのようにあがいてもその支配から逃れることは出来ない。ボクには本当の自由はなく,自由に振舞っているようでいて,親の掌の上で踊っているだけで,セックスにしてもパパに言われるがままにしているだけであり,親殺しだって(車で轢くのは親殺しである)そのように振舞わされているだけ,という物語である。同じことをワタシの方が上手にしているようなので,ボクはすごく焦る。そして,何とかやり遂げて,最後に,父親に,「この子は見どころがあると思っていた」,と褒めてもらって,ボクは安心するというものである。この物語のどこが不気味なのだろうか,それは後でまとめて論じたい。
第2章は,「R.M.F.は飛ぶ」という題名がついているが,確かにR.M.F.のシャツを着た人物はヘリコプターのパイロットとして登場し,遭難した妻を救助して運んでくるので,飛んでいることは間違いない。ただ,この章の本筋とは関係がなさそうに思える。この章のテーマは,「海で失踪し帰還するも別人のようになった妻を恐れる警察官」の物語ということだが,二人の狂った夫婦の物語であり,やはり精神分析的に読み解くなら,子どもたちは,いずれは自立してセックスと暴力の中で生きていかなければならなくなるが,それは妄想的な生き方であり,傍から見るとおかしくても本人たちはそのことに気づかない,ということだろう。この章のボクとワタシの夫婦は,海難事故で妻が遭難するまでは二人の狂気は露呈していなかったのであるが,海難事故という生死の危機に際して病理があぶり出され,ボクの妄想的な世界は歯止めが利かなくなる。ボクは,妻は本当の妻ではなく,エイリアンか何かなのだと考える。しかし,妻の方も生死の狭間を生き残って,おかしな夢を見たりしていて,夫がおかしいと主張できるほど正常ではない。そもそも,あなたは以前のあなたとは別人でしょうと言われて,いや,同一人です,と証明することが出来る人などいる筈がない。妻を食べたいと言う夫に対して,妻は実際に自分の身体を提供してしまう。これが赤ん坊と母親の関係だったら,食べることは何でもない普通のことだが,大人同士では,それはとても奇妙なことに映る。それでも,妻はそれに応じるのだが,本当に実行するので死んでしまう。夫=赤ん坊は,最後に,本当に欲しかったのはお母さんだった,という幻覚を見る。ボクとワタシの二人とも,性と死をめぐるとてもプリミティヴな幻想を展開していることが示唆されるのである。親がいないと,このようになってしまうということだろうか。
第3章は,「R.M.F.はサンドウィッチを食べる」という題名がついているが,R.M.F.は死体安置所で死体として登場し,復活させてもらって,サンドウィッチを食べるのだが,これもまた映画の本筋とは関係があるようには見えない。第3章の部分のテーマは,「卓越した教祖になると定められた特別な人物を懸命に探す女」ということであるが,舞台はある宗教カルトであり,その団体の教祖となるべく,死者をよみがえらせる力=不死の力を持つ者を探す物語である。そういう能力を持っているのは原初の対象,すなわち母親ということになるだろう。なので,この部分は母親探しの物語である。主人公のワタシは,家族を捨ててその人物を探す使命を帯びているが,家族を完全に捨て切れているわけではない。ただ,死者を復活させるためには,誰かが死ななければならないので,うまく行く筈がないように運命づけられていると言えるだろう。一方で,ボクは何もすることが出来ないので,傍から指をくわえて眺めるだけである。この章は精神分析的に解釈するならば,原光景から排除された子どもたちが,何とかそこに入り込もうと思って,もがいている,ということになる。しかし,仮に親とセックスをしたところで,得られるものは何なのだろうか。そうかといって,好きにセックスをして,新しい家族を持つことも許されていない。そこを突破する手立てとして,原初の対象(=超能力者)があるのだが,それを見つけたと思ったワタシは,それに手を伸ばす。そしてそれを手に入れて有頂天となるが,それを持っていこうとして,失敗して事故を起こし死なせてしまう。何かオルフェウス的なニュアンスもある,と言えるだろうか。やはり子どもは何もできないのである。
このように,この3つの物語は,一貫して,親と子の関係の中で,セックスと死,そして愛という,私たちに身近なテーマを扱っている。これらはいずれも馴染みが深く,しかし目を背けたいテーマであるので,おぞましく,同時に引き付ける。私たちはそうした不気味なものから逃れたいと思うが,死からは逃れることは出来ないし,そもそも人生は原光景で始まり,死で終わるのである。その間に愛が挟まるのだろうか。狂気も混じるかもしれない。精神分析の視点から言うならば,描かれているのは,人生そのものである。主人公であるボクとワタシは憐れなエディプスと言っても良いかもしれないが,とても惨めな姿を晒している,と言えるだろう。子どもたちは自分の人生を生きることは出来ないのである。
この映画は,私たちの人生そのものを,ブラックなユーモアに包みつつも,赤裸々に描くので,とても精神分析的であると思う。主人公たちの行動は,傍から見るとおかしいので笑ってしまうのも自然だが,その笑いは自分に跳ね返ってくることになるかもしれない。そして,人生の真実を描いているだけなのに,この映画をおぞましいと感じる人が多いのを見ると,世の中で精神分析がなかなか受け入れられないのは,至極当然のことであるようにも思える。精神分析はこうしたおぞましい部分を赤裸々に晒してしまう作業であるが,通常,私たちは,自分たちの人生のこうした部分を蓋で覆いつつ,日々の暮らしを送っているのである。その蓋を開けてみる作業が精神分析であるが,勿論,そうしたからと言って私たちの人生の謎がすべて解かれるわけではなく,謎は謎のまま残り,更に展開していくだろう。例えば,この物語では,R.M.F.はいったい誰なのか,というあからさまな謎が提示されているが,これはそのまま謎であり続けるだろう。これは些細な謎に過ぎないかもしれないが,それらを私たちは抱えていくことしかできない。ここにあるのが,精神分析の対象なのである。
(文責:館 直彦)