臨床コラム 「異物」との出会いを巡って

 唐突で恐縮ではあるが,皆さんは「異物」という単語から,何を連想するだろうか。

 例えば「異物混入」,「異物が詰まる」,「異物を排除する」…。どれにしても,本来その場にあってはならない不快で奇異なものであり,「異物」の多くは無くされるべきものという認識が強いのではないだろうか。また,人が自身の心に向き合う時にも目をそむけたくなるような「異物」のようなものと出会うことがある。例えば,忘れていたような嫌な記憶や不安な出来事。気付きたくなかったような苦しい経験。自分では本来認めたくないような性格的な側面など。これらのような「異物」が自身にとって受け入れられるものでなかったときには,記憶の彼方へと忘れ去られ,いわゆる排除されることもあるかもしれない。けれども,果たして「異物」はただただ排除されるべきものなのだろうか。最近,ある出来事から「異物」への認識が少し変わったため,それを共有したいと思う。

 ある都市部の駅のホームで,片方だけの壊れたハイヒールが落ちていた。ヒールの部分が本体から今にも剝がれそうなそれはホームのほぼど真ん中に落ちていて,行き交う多くの人々が,それを避けるようにして歩いていた。人々の中には,ハイヒールの存在に気付いて視線を落とす人もいれば気が付かないままにハイヒールを避けて歩くような人もいる。私は何故か,妙にその光景が気になってしばらくボーっと遠くから眺めていたのだが,私が眺めている間,そのハイヒールは誰の手にも取られることはなくただただ避けられてしかいなかった。

 何日かが経って,私はまた同じ場所を歩くことになった。清掃の人が処分したのだろうか。あのハイヒールは勿論その場からは無くなっていた。そのお陰で,人々はあの日とは違って何にも邪魔をされることなくホームを歩くことができていた。あのハイヒールは人々にとって行く手を阻害する邪魔な「異物」であったのかもしれない。そしてハイヒールが処分されたことで,つまり「異物」がなくなったことで,駅のホームは滞りのない人通りを取り戻した。しかしそれと同時に,その場は何の変哲もない駅のホームとなりかわってしまったように思えた。あの壊れたハイヒールという「異物」がないこの空間は,とっかかりがない,どうともない,なんともない,どうでもいい空間となってしまった。「なってしまった」。このように表現するくらいには,私は目の前の空間に対して寂しさを感じていた。あの壊れたハイヒールがあったからこそ,私はこの空間に対して思いを馳せることができたことに気付かされたのであった。

 ,,,心底驚いた。以前存在した壊れたハイヒールがそこにないだけ,それだけで,多少なりとも寂しいという感情が生まれたのである。その時の私の感受性が何故かえらく豊かだっただけなのかもしれないけれど,随分と新鮮な体験であった。

 ここで再び人が自分自身の心に向き合う際の体験に戻りたい。自身が気づき得なかった「異物」との出会いは,居心地のよいものではないだろう。自身の平穏な日常を阻害するものとなって,気づきたくはなかったと後悔したり,排除したいと思ったりするかもしれない。けれども,「異物」との出会いはただただ不快をもたらすだけではないようにも思う。

 壊れたハイヒールが駅のホームで「異物」として存在していたからこそ,その空間の中では邪魔だったかもしれないが,だからこそ私はそのシーンを心に留めることになり,壊れたハイヒールと出会うことができた。そして,今まで感じたことがないような,壊れたハイヒールが無くなってしまったことによる寂しさを覚えたりなんかもして,私にとって印象深いものとなった。そして,本コラムのネタにもなり,読者との出会いにも繋がった(かもしれない)。

 嫌な記憶,向き合うには辛い自身の性格等々の「異物」に気付くことによって苦痛が生じると同時に,今まで気づくことができなかった自分自身の一側面に出会うことができるかもしれないし,自身に対する洞察が進むかもしれない。過去に体験した辛いシーンを再び思い出すことによって,新たな気づきが生まれる可能性だってあるだろう。或いは,今までは感じ取ることができなかった苦しさへの気付きが,誰かに助けを求めるきっかけとなり,家族や友人,病院などとの新たな関係性へと繋がることもあり得る。「異物」との出会いは,あげていくときりがないくらいにあらゆることを生み出す契機ともなるかもしれないと思えた。

 以上が今回の壊れたハイヒールとの出会いから連想されたことであるが,「異物」というものの捉え方はもう少し色々な見方ができるかもしれないと思う。今後も考える余地があるだろう。

(文責:守屋 彩加)

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