臨床コラム のらりくらりしたら、こんなことになった。

真っ白な用紙を目の前にすると(この場合はPCのディスプレイであるけれども)、どうしたものかとたじろいでしまう人もいれば、わくわくして高揚する人もいるだろう。

 僕は、あなたは、どちらだろうか。

 真っ白であることを前に、どのように反応するのだろうか。

 これこそ自由だ、と感じるのだろうか。

 まったく不自由だ、感じるのだろうか。

 僕がこのようにして書いているのは、これが僕の反応だからだ。何かを書く(この場合は打っているわけだけれども)ことを、僕は選んだわけである。僕がテキストを書くことを選んだから、僕は何を書くかという思考と、テキストを書き出すという行動を、僕の脳と手とが許す速度でもって行っている。

 形式は、記号であっても、絵であっても、写真であってもいいのに、なぜかそうしている。

 内容は、ある一定の情報でさえあれば、なんだっていいはずなのに、なぜかこうしている。

 だからこのようにして、直角三角形を描いてもいいわけである。

 好みで色を濃緑にしてみても、それはそれで、いいわけである。

 この直角三角形を通して、何かを論じてみてもいいわけである。

 さらに、こんなふうに写真も加えてみてもいいのだろう。

 写真を踏まえて、何かをしたためてみてもいいのだろう。

 もしくは、音声データを埋め込んでもいい。しないけど。

 そんなふうに、好きにしてもいいはずだ。

 その理由はとても単純で、ここが真っ白だからだ。HP上では背景に色が付いているかもしれないから真っ白という書き方は不適当かもしれないけれど、要するに、ここには何も書かれても描かれてもおらず、白いという情報以上の情報がないからだ。そのため、ここになんらかの情報を付与すれば、僕の仕事はそれで終わりなのである。

 むしろ、ここにどのような情報が含まれているかを読みとる側にこそ、何を拾い、何に気付き、どこに注目するのか、情報と自己との関係の中で問われることになる。

 しかしこれはいささか乱暴である。なぜなら僕は、何かを明確に主張しようとしていないからだ。付け加えると、何かを主張しようという気持ちも、主張したいような内容も、いま、とりたてて何もないのである。それが出てくることを期待して、でも先延ばしにしながら、乱雑な模様を描くように、つらつらテキストを書いている。そう書いてみたものの、本当に期待しているのかもよくわからない。それは僕が僕に期待しているということだろうが、そんな期待は自分の中には見つからないし、見つけようとも思っていない。こうして、書く、という方法を選んだものの、そこに含まれる内容までは選んでいない。これを見切り発車と呼んでもいいし、考えなしと呼んでもいいし、自由と呼んでもいいかもしれない。

 はてさて、何を書こうか。真っ白なページは、何を書いてもいいという点では自由ではある。一方で、何かを書かなければならないという点では不自由である。そしてもし表現手法がテキストでなければならないというなら、それはさらに不自由の要因になる。しかし、何をしてもいい、と言われるよりも、これを使ってしましょう、と言われるほうが、安心できる人もいるのではないだろうか。野ざらしにされるより、見通しや方向性を与えられるほうが、取り組みやすい人はそれなりにいるだろうと思う。

 それは、大人になったということだろうか。

 好きにしてもいい、という言葉が、かえってしがらみとして機能することがある。まずそれは、好きにしなければならないという不自由な状況を発生させるし、また本当に好き勝手してしまったら社会的にまずいようなことだってある。また、良いことを書かねばならない、ためになることを書かねばならない、変なことを書いたら笑われるかもしれない、といった内なる声が聞こえてくるかもしれない。

 そんなふうに、大なり小なり感じる不安が、白亜の奥から語りかけてくる。

 真っ白なページに、何を埋めようか。

 真っ白なページを、どう埋めようか。

 そういえば、このコラムのタイトルは、臨床コラムだった。つまりこれは、臨床に関するコラムを書け、という指定であり、それはひとつの制限という点で不自由であり、それに関することを書いてもいいという点では自由でもある。この制限は、ルールとも呼ばれている性質のものである。ルールの中で許されている水準において、好きに振る舞ってもいいものである。

 心理療法も、そういうものかもしれない、みたいな、それっぽい結論を掲げて筆を置く(もともと持っていない)こともできる。

 そうしようか。

 そうしまいか。

 さて困った、みたいな演出はしてみたものの、とくに困ってはいない。困っている雰囲気をそれっぽく出してみただけだし、そしてとくにそういう演出をしたいと狙っているわけでもない。煙に巻きたいわけでもないし、情に訴えたいわけでもないし、背に腹を代えたいわけでもない。

 それでも、あにはからんや、ページは埋まり続けている。

 それでは、いったい何によってこのコラムは埋まっているのだろうか。

 それはテキストである。正しいことだと思う。

 どれも無意味なものだ。正しいことだと思う。

 ところで、ここまで、書く、と記してきたところを、言う、に置き換えてみよう。

 さらに、テキスト、を、発言、に置き換えてみよう。

 だからどうということでもない。

 とたんに、日常が顔をのぞかせるように思える。

 のらりくらりした結果、こうなってしまったコラムなのである。

(文:平野慎太郎)

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