臨床コラム もののたとえ

 私たちの生活には,色々なたとえにあふれています。例えば,燃えるような赤,竹を割ったような性格,鈴を転がすような声,といった直喩と呼ばれるもの。コメントが炎上する,温泉に入って極楽,明るい表情といった隠喩と呼ばれるもの。換喩と呼ばれる,病院で注射を打ってもらう,鍋を食べる,美術館でマティスを見た,というものがあります。

 カウンセリングの中で,私とクライエントは色々なたとえに出会うように思います。それは,話された言葉の表現だけでなく,話の中に出てくる人・動物・風景・音楽・小説・詩・絵・夢などもたとえのひとつになります。特に,夢は精神分析の中で大事なものとして扱われてきました。夢は私たちのこころの奥底にあるものが形を変えて出てきているので,変なストーリー展開にもなるのですが,形を変えてあらわさなければない何かがあるのだ,とフロイトは考えています。もっとも,その夢を相手に,このタイミングで話すこと,どのように話すのかということにも意味があるのですが,このあたりのことは割愛します。

 私はもっと単純に,クライエントが話したこと中に出てきたものやことが,その人をたとえるのにぴったりなたとえであると感じることあります。それはたいてい,隠喩と呼べるものではないかと思います。そういったたとえに出会ったとき,私はなんだか,美しいものが生まれた瞬間に立ち会ったような,そんな気持ちになり,鳥肌が立ちます。そういった瞬間は決して多くはありません。けれど,そういう瞬間に出会うために,私たちは会い続けているのではないかと思います。そして,たとえは変化しづつけて,また別のたとえを見つけることになります。その変化していく様も美しいと思います。(こうやって美しい,美しいと書いていると気恥ずかしいのですが,そのような言葉でしかたとえることができない感覚なのです。)

 フロイトは精神分析を考古学にたとえましたが,私は,何かちょっとした,しかし美しいものを見つけて,一つひとつ拾い集めて,こころの中にそっとしまっておく(そして時々取り出して眺めたりする)作業にたとえたいです。クライエントは症状を良くすることを目的としてカウンセリングをはじめて,しんどい,辛い,死にたいと言いながらも続けてくださるのは,この作業でしか得られない何かがあると,こころのどこかで感じているからではないかと思います。

(文責:奧田 久紗子)

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