臨床コラム 人間的なものをめぐって

 言葉によるものだけでなく,「もの」もそれをどのように見せるかによってひとつの物語を生みます。演劇や映画で用いられる,スポットライトで浮き上がらせるとか長く映すことや接写することによって,そのものがもっている形やそのはたらきの特徴を焦点化してみるものに特定の感覚と連想をもたらすというコミュニケーションの方法があります。

 昔流行ったやくざ映画の冒頭で,ひたすら人がものを食べる,しかもその口と咀嚼活動のさまざまを連続して長く見せるという表現に出会ってびっくりしたことを今でも強く覚えています。多くの食事シーンには,いろんなひとの顔と表情があって,食事をする人やその人たちの状況や関係が描かれるのですが,ストーリー性のない「飲み込む」ために「噛む」という活動が断片だけ抽出されて,どのような人物像もその活動へと収斂していくのです。深作欣二というやくざ映画で名をはせた監督の作品でしたが,やくざ映画のストーリーを超える導入の映像が,監督がそのストーリーの中で強調したいものが示されていたのでしょう。私は,人物像やその顔という全体を提示されるなかで観られるものと,口という身体部分の活動においてみられるものの異質さに衝撃を受けました。生きることに伴う非常にベーシックな活動なのになんとグロテスクなことか,まぎれもない事実の断片なのですが私たちはそのグロテスクな面を目にせずに楽しめるのはまことにありがたいことです。

 人が人の顔貌を認知する脳神経の回路はそのほかの対象を認知する回路とは異なっていると言われています。頭,目,鼻,口,眉毛があるという点では共通な私たちの顔貌を,一瞬にして個別特定化する認知能力は,ある意味私たちが不快に出会わないように助けになっているのかもしれません。人は決して端的な現実,事実認知に基づいて生活を営んでいるのではなく,そこに人間的な特性がはたらいていて,そのように世界を理解するように仕組まれていることも見落とせないのです。

(文責:弘田洋二)

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