臨床コラム 光「で」かく、光「を」かく

 スマートフォンや携帯電話を持っているということは、いまやカメラを持っているということを含んでいる。玄人か素人かはさておき、ほとんどの人が写真家となっている時代だろう。
 写真は英語で、photographである。photoは「光」のことであり、graphは「かく(書く、描く)」ことである。写真という二字熟語では、真(まこと)を写す、と分解できるけれど、もともとのphotographに真の意味合いはないし、写すという転写の意味合いもない(たぶん)。写真という言葉自体はまったく嫌いではないが、カメラによって写された像が真であると言われたら、そうでもないように思う。
 ちなみにカメラとは、暗箱という本体に光を取り込み、感光フィルムに像を結ばせるという構造と原理を持った装置のことである。いまは映像素子がフィルムの役割を果たしているので構造は違っているものの、カメラという暗箱にレンズを通して光を取り込む、という機構は同じであると見ていい。詳しいことはwikipediaやカメラ会社のウェブサイトなどに書いてあるので、読んでみてほしい。
 カメラを繰り、写真を撮るということは、光を遊び道具にするということである。絵の具やインクのかわりに光「を」材料にして、光「で」書く、描くこと、それによって物語を創ることが、写真を撮るということである。
 暗闇のなかに光を取り込むことによって成り立つこのシステムによって、光という現象が、じつは非常に強い刺激であるということを教えてくれる。暗闇が人を不安にさせるが、光は目を眩ませ、目を壊すこともある。瞼の遮光力を越えた光の眩しさは、暴力的なまでの光の侵入である。
 このコラムでは、いくつかの写真にかかわる概念や理論をつかって、実際に僕が撮影した写真と結びつけて解説してみたい。ソンタグは、写真は現実を「所有する行為」だと述べたが、私にとって写真によって所有できるのは現実そのものではない。そこには外界の観察をしているのと同時に、内的な感覚を動かしながら、外界とコミュニケートするプロセスが生じている。所有できるのは、自分だけの現実であり、そして内的体験との「あわい」であり、それを含めての現実である。

■構図について
 とは言ったものの、写真の概念や理論について僕はぜんぜん詳しくないし、それを学んだところで即写真が上手になるということもない。
 写真は、媒体である。それはさまざまな感情や体験を媒介する装置である。それは絵画や詩といったアートの性質であり、それゆえに写真はアートのひとつに分類される。
 写真において、描く主体は光である。光「が」写真を描くが、どのように描くかということについては撮影者の手に委ねられる(カメラの機械的な限界については省く)。
 なにかの体験や感覚を、写真を見た人に抱いてほしい。写真を撮る人の欲望はそこにあり、写真がいつも自分の外界にあるものを切り取る以上、そこには被写体となっている外界の何かと関係することへの切望が込められる。それは自分を含めた他者へのアプローチにほかならない。写真を撮ることによって、実際にそれに触れることによる以上に、何かに触れられる気がしているのである。それは必ずしも現実的な真(まこと)ではないかもしれない。そのように触れられるという感覚がたとえ空想であるとしても、写真家はその空想の中を含めたこの世界と、つまり心の世界と外界の両方と、コミュニケートしようとしている。
 話を戻して、構図についての基本原理を説明してみる。
①三分割法
 画面を縦横等間隔に三分割し、九つの次元を作る。そして各分割線の交点に、主題となる被写体を配置する方法である。交点に被写体があると、写真のバランスがよくなる。しかし三分割法で撮影された写真が続くと、どれもこれも同じ空間の使い方になり、ちょっと退屈になる。
②黄金比
 これは美術的に美しい有名な比率として、1:1.618の比率に基づいて被写体を配置すること、画面を作る方法である。美しい感覚を与えるものだが、黄金比であれば自動的に美しいという体験を与えるというわけでもない。
③対角構図
 被写体を対角線上に配置する方法、つまり斜めに配置することである。斜めというのは同じ平面上に斜めでもあるし、奥行きをともなって斜めになっているということもある。これによって動きが感じられやすい。
④シンメトリー、アシンメトリー
 被写体を左右対称に配置するか、あえて非対称にして配置するか、ということである。左右対称は、しばしば権威的な構造物にみられる形式であり、重厚観や荘厳さ、権威性を感じさせる。
⑤ネガティブ・スペース
 被写体よりも、空間を大きく際立たせる配置である。あえて余白や間を大きく作ることによって被写体が際立つこともあれば、写真に象徴性や詩的な印象を与える。それはさみしさや無常観、あるいは広さや畏怖などにも繋がる。余白が多いことは貧しさではなく豊かさとなり、被写体との不可欠な関係性をもたらす。それはSimon & Garfunkeの『sound of silence』のように、沈黙の語りを聞くのと似ている。

 こんな感じで、ざっと写真の構図における基本原理を説明してみた。理屈に沿った写真は安定しているし、美しいという感覚を素直に与えてくれる。あえて崩すのは、上手になってからで良い。だから僕はまだ、そんなに崩せない。

■写真を分析してみる
 ここから、写真を使ってあれこれ考えてみる。これは主観的な分析であって、客観的なものではないし、僕以外の人がこれらの写真にどう感じるかもわからない。ナンバリングに付されているのは、写真のタイトルではなく撮影された被写体のことである。前置きしたようにどの写真も、僕が自分で撮影したものである。またどの写真もレタッチ(撮影後の加工)は施していない。

①パンチング・テーブル 

 この写真のピントは、写真としては中央寄り数列の穴に合っており、奥に向かって緩やかに被写界深度が浅くなり、かつピントもボケていく。そのため背景(木立・柵)は完全にボケており、形態の情報が失われている。ピントの合う部分が限定されることによって、この写真を見たものの注意は、テーブルの穴に基づくパターンよりも、ピントのある一点から空間全体へと誘導される。
 それでも写真の大部分が均一な穴の反復によって構成されていることから、リズミカルな運動を感じさせるところがある。しかし奥に進むほど焦点が失われるため、またテーブル平面に対して鋭角からの撮影によって奥の穴と手前の穴の同質性が崩れるため、リズムは次第に曖昧になる。この曖昧さが、メルロ=ポンティ的には、知覚の揺らぎを生み、自分たちの知覚の不確実性に気付かせることになる。見えているのは実在の物体としての鉄のテーブルであるが、その物質としての全体性を撮影しているのではなく、奥行きという距離そのものを切り出している。もしテーブル全体にピントが合っていると、テーブルの物質性を強調することになり、曖昧さが失われることになる。それはそれで別の体験を与えるだろうが、この写真では前後のボケが物理的な連続性を一部損なうことを通して、知覚の揺らぎを冷たく、硬く、しかし柔らかに表現している。

②カエル 

 明確な主題であるカエルが縦の棒を掴みながら、こちらに左目を向けている。中央に主題が置かれており、その周辺の背景は曖昧で、目立った情報を持っていない。これがどこなのか、はっきりとはわからない。しかしそれは関心の埒外にあり、カエルの存在、その姿勢が持つ生命的な躍動感を強調することに狙いがある。主題が背景から浮き上がっているのは、被写界深度が浅いためであり、ゲシュタルトでいうところの図と地が明確に分離されている。この奥行きのコントロールは、主題の強調に直接寄与する。
 先のテーブルと違い、このカエルは生きている。カエルの目は、カメラを見ている。もちろん人間の目で見た視界と同じようにカエルが視覚体験を処理しているとは思えないが、カエルの目はこちらを見ている。そしてこちらもまた、カエルのことを見ている。だからこの写真が撮られたのである。この相互にお互いを見ること、そして見られることによって、この写真は成立している。こちらがこのカエルを見ているばかりではない。こちらはこのカエルに見られてもいる。相互注視という関係的な構造が、この写真には込められている。それは写真という存在が、そして撮影という行為が、必然的に外界との関係を基盤にしているということを伝えている。それは写真そのもののリアルである。
 このカエルの緑色の皮膚には光沢があり、白いところの皮膚には湿度があり、足の指には吸盤のぺったりした印象が感じられる。したがってこの写真は、カエルとの触覚的なコミュニケーションを可能にしている。カイヨワが物象化する視覚(vision matérialisante)というように、写真という視覚体験が物質の感触すなわち触覚を媒介する。この触覚が、生命の存在を印象づける。静止画であるはずの写真に、生命の動きや力動が感じられるのは、そのようなコミュニケーションが生じるからなのだろう。

 この二枚の写真は、いくつかの対比がある。
 主題としては、生物と無生物である。テーマとしては、①はパターンという抽象と構造的なリズムによる、②は生命との関係性と触覚である。写真の構図としては、①は空間的な奥行きを強調して視線を泳がすし、②は中央に主題を配置して視線を固定する。差異はそれぞれの特徴と豊かさに気付かせる。いつも同じ良さを目指す必要はない。

 さらに三枚の写真について、続けて書いてみたい。

③椿 

 被写界深度は浅く、椿の花弁にのみピントが合っており、三分割構図そのままの写真である。背景はやわらかなボケによって、鮮明な像は結ばないものの、色彩によって花や葉や枝の存在感を与え、主題と背景を色彩的に共鳴させている。写真自体は、深い紅と緑、そして陰影によって暗く抑えられており、椿という浮き足立たない花のキャラクタが表現されている。花にピントが合うことによって、椿の花が螺旋状についているという構造が明確になり、この螺旋という秩序立ったリズムとともに、この椿のことを所有するという空想がもたらされる。
 手前の閉じられた花弁の内側もまた、そのような螺旋構造にあるということを想像させ、咲き誇る椿の過去を呼び起こす。そして同時に、この椿はいずれ枯れ落ちるという未来も含まれている。椿の花は首がぽとりと落ちてしまう様を連想させるほどの、死を匂わせる佇まいがある。この開花している瞬間は時間的な点であるが、それによって開花以前の過去と、開花後の未来という、時間的な意味での奥行きとしての線を表現している。この椿は、そうした存在のあることとないことを象徴しているかもしれない。

④厳島神社 

 厳島神社の鳥居を三分割左下の交点に置いており、水平で砂浜、海、空と画面を分割しているが、画面の80%を空が占めている。この広大な何もないスペースが、先述べた、ネガティブ・スペースである。惜しむらくは水平線の向こうに街が見えることである。極端なほどに空が占めるこの構図は、厳島神社という有形物を画面に収めることによって、むしろ広大な余白や空白を描くことを目論んでいる。この莫大なネガティブ・スペースには、なにもないわけではなく、薄雲の広がる空が存在している。あえて空と雲をグレーのトーンに落とすことによって、彩度の高い鳥居との対比をなしており、遠景としてのネガティブ・スペースと、近景の鳥居や砂浜との存在感のバランスを保っている。
 左右対称の鳥居という宗教的構造物はそれなりの権威と畏怖を与えるが、さらに広大な空間の広がりがこの威厳ある建築物の孤独さや、ある種の滑稽さを、詩的に表現している。そして小さく配置された人物たちもまた、この空、鳥居のスケール感を刺激する添え物となっている。この写真が提示するスケール感覚は、私たちが生きる世界のリアリティである。空の広がりに対して、人間の営みは非常に些細なものである。何もないように見える広大なネガティブ・スペースは、僕たちを抱える環境の匿名性を思わせ、背景化する自然への恩恵と畏怖に注意を向けさせる。
 ネガティブ・スペースを活かすことはそれなりに挑戦がいることで、普通は一枚の写真の中にたくさんの情報を同時に込めたくなるものだ。しかしこのような余白と空白によって構成できることは、そうした余白や空白、そして沈黙や無に対しての価値や意味や信頼を持てることにつながる。先にも述べたが、このスペースは貧しさではなく豊かさである。もしくは雄弁な沈黙であり、はたまた無の具象化である。
 悠久の空、いずれ崩れ落ちる鳥居、そして有限を生きる人々。それぞれの存在のあり方が、この一枚に同時に現れている。

⑤ウミガメ

  水面付近を泳ぐ子ウミガメを、水面に映る反射像もろとも切り取っている。構図や、背景の均質性はカエルの写真とほとんど同じだが、彩度は低めで、色味は青に寄っており、いくらか冷たさを感じさせるトーンである。この構図と色味によって、静謐さと寂寞の感覚が呼び起こされるはずだ。
 反射像は鏡像であり、子ガメが自己像と向き合っているかのようである。実際にはそんなことはなく、子ガメは息を吸いに水面に上がってきただけである。しかしここには、鏡像がある。それはすなわち、現実に生きているという子ガメの強烈なまでの存在感を感じさせている。
 水中という場所が、写真の中に浮遊感を与える。子ガメはその身を軽やかに漂わせる。この写真に含まれる静けさとさみしさが悲観的なものでないのは、子ガメの存在が現実に補償されている鏡像のためだろう。そこにはある存在が自己と出会う瞬間があり、ひいては他者との出会いが待ち受ける可能性を示唆する。子ガメは呼吸の際に鏡像とキスをするかもしれないが、ナルシスのように鏡像に耽溺することはない。子ガメは息継ぎのために、すなわち生きるために鏡像に触れるだけである。そこには円環的に閉ざされた関係性は存在しない。この鏡像はしばらく映っているが、呼吸のすぐあとには消えてしまう。それはまるで、有限を生きる命そのものである。したがって映る鏡像も消える鏡像も、存在があるからこそ生じては消えるものである。鏡像が完全に消えるとき、それは命もろとも消えるときである。
 この写真には、静かに、穏やかに、孤独だが軽やかに命を繋いでゆく、生の運動が水のように満たされている。

 ③から⑤の写真は、いずれも写真の特性である静止した時間という瞬間的な点を通して、生命の時間的運動、存在性を描いている。それぞれのテーマや構図の対比は割愛する。

 重要なのは、それぞれの写真を探求するプロセスである。何度か書いているように、写真は静止した時間的点の切り取りである。しかし見方によっては、十分に時間的な連続性、運動、存在の変化を感じることができると思う。

■写真を撮ること、心理療法
 視覚的媒体である写真について、言語という別の媒体で置き換えて説明、解釈を加えてみた。これは写真の精神分析と言ってもいいかもしれない。ある意味でこれは、蛇足だったり、野暮だったり、視覚から言語への強引な変形が含まれたりしているが、もし写真という視覚媒体なしにそれぞれの写真を描写しようとすると、このようなことになる。
 心理療法のなかでの自由連想も解釈も、言葉が心の何か、あるいは心という何かを、言葉によって置き換えている。心は、言葉ではない。心を言語的に描こうとするとき使う道具が言葉である、というだけである。それゆえに心が語られるためには、自然な変形プロセスに沿っている必要がある。変形が強引であるとどこかに無理がくる。あまりに強い光が目に障るのと同じである。そうするとセラピー室にはいられなくなるだろう。歩み方、道なり、勾配、速度、ペース、リズム、風景、そのときの気持ちや経験など、それらをひっくるめてプロセスと呼ぶなら、心理療法のプロセスは誰しも違っている。
 刺激の量と質は、なるべく適度であるほうがいい。もちろんそれは万能にコントロールできるものではない。写真が暗すぎたり、明るすぎたり、ピントや構図がズレたりすることと同じである。それでも偶発的にいい写真が撮れることもあるし、偶然だと思ったら必然的な成り行きであったりすることもある。
 写真を撮ることは、光と闇を信頼し、世界に心を開き、そして残酷にも、かつ無謀にも、世界を切り取ろうと試み、そして写真として閉じ込める行為である。それによって僕は、自分の世界を所有することに成功する。しかしこの成功は、膨大な失敗を前提にしている。だいたい気に入る写真が撮れる比率は、600枚に1枚くらいである(過去は1000枚に1枚だった)。それは僕があまりに写真がヘタクソだからだ。これはあくまで僕が気に入るかどうかであり、かならずしも優れた写真だというわけではない。
 このこともまた、心理療法と重なるところがある。心理療法は、語られた人生の一部を切り取り続ける。それが過去、現在、未来、どの時間軸のことかも、本当の意味では誰にもわからない。とにかく何かが、どのようにか、写るだけだ。

 人はいつもどこかで、ファインダーを覗くようにして、自分自身を覗いている。
 写真も心理療法も、その唯一無二のまなざしに、関心を向けている。

(文責:淺田(平野)

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