臨床コラム 埋められた余白
私は今,電車に乗っている。目に入るのは無数の小さな四角。スマートフォンだったりタブレットだったりの画面をのぞき込む顔,目に映っている画面の光,電車のガタンゴトンという走行音だけが車内に響き渡っている。
思い返せば,昔は車内の色々な場所から会話が聞こえたように思う。子どもが窓の外の景色を親に報告したり,学生同士が昨日のテレビ番組について盛り上がったり(そのなかにかつての私もいたことだろう)。けれど今はその頃とは少し変わっているかもしれない。夫婦であろう人たちが隣合わせに座っていても,視線は画面に吸い込まれて,お互いの顔さえみていない。いつからこんなに静かになったのだろう。コロナ禍の影響だろうか。気付くと,スマートフォンという小さな光が,日常に存在していた余白を埋めてしまっているように思えてくる。
スマートフォンはとても便利なもので,知りたいことを調べればすぐに答えが返ってくるし,退屈な時間も動画や音楽で簡単に埋めることができる。けれどその「即時性」は,すぐに何かを解決してくれると同時に,考え,感じるため余白を奪ってしまうように思う。情報はある一つの事実を提示してくれるが,自分の中で立ち止まり,考えを巡らせ,想像(創造)を広げていく余地は少ない。
本との関係は少し違ってみえる。文字を追いながら,行間には立ち止まって自分の頭の中で情景や感情を膨らませることができる。気になる文があれば読み返して繰り返し味わったり,自分のペースで読み進めていくうちに自分なりの考えが生まれてくる。生身の人間との会話にも同じことが言えるだろう。相手が予想外の反応を返したり,沈黙が訪れたりすることで,自分の思考が揺さぶられ,新しい何かが立ち上がってくる。こうしたやり取りには,スマートフォンが与えてくれるような即時的な答えからくる安心感は乏しいかもしれないが,生きたやりとり,豊かさがあるように感じられる。
私自身が実感していることでもあるが,最近はただぼんやりする時間さえ少なくなっているような気がする。退屈を恐れるかのように,空白を音楽や情報で埋めたくなるような日もある。そんなことを感じていると,『プーと大人になった僕』という映画の一節が思い起こされる。この「プー」というのは黄色いクマのプーさんの「プー」である。「何もしなければ何も生まれない」という言葉を繰り返す大人になったクリストファー・ロビンに,プーは「僕は『何もしない』を一生懸命やってるよ」,「何もしないことは,最高の何かに繋がるんだ」と伝えている。何もしないということは,もしかすると,心の中で感情を消化し,自分が何をしたくて,何を考えているのか,という自身の考えを育むための大切な時間となるのではないだろうか。或いは,今ここでは想像できない何か新しいものが芽生える時間となるかもしれない。空白をそのまま抱えることは落ち着かない感じもするし,無駄かのように感じるようなこともあるかもしれないけれど,空白の中で静かに醸成されているものに視点を置いてみると何か気付きを得ることができるかもしれない。
紅茶を飲みながらボーっとしたり,外を眺めたり,深呼吸をしてみたり。そうした無為の時間を許してみると思いがけない何かが生まれてくるかもしれない。便利さに満ちた日常の中で,あえて立ち止まること。たまにはそんなことをしてもいいのかも,と思えた電車内での時間であった。
(文責:守屋 彩加)

