臨床コラム 書き残すことの意味

 このコラムを読んでいるみなさんには,自分の考えを文章として残すという習慣はありますか?

 例えば日記が最初に思いつきますが,書評を書いてみたり,コラムやエッセイのようなものを書いてみたり…様々あるかと思います。

 私は,観た映画の感想を何月何日にどこで誰と観たのか,その映画を観ることになったきっかけ,日常の変化とを併せて記録に残すのが好きです。イメージ的にはただ映画の感想を述べているというよりも「私の日記〜映画の感想を添えて〜」というような感じで,かなりその時の自身の情緒や実生活での状況なども大いに含めて書いています。このような形態で書いているのは,日常での体験と映画の感想をリンクさせたほうが,振り返ってみたときに当時の情緒体験をリアルに再現できるからです。

 映画の感想を書く作業,言い換えると自身の感情をしたためる作業が私の中で習慣化されてから月日が経つのですが,私がなぜ書きたくなるのかということ,そして私たちが日頃おこなっている精神分析的な作業と重なる部分についてこの場を借りて考えていきたいと思います。

 まずは,作業中の感覚を比喩的に表現してみたいと思います。

 例えば,通勤路や通学路を自転車で走っている想像をしてみてください。自転車だと,周りの景色が早いスピードで動きます。また,余所見をしていると事故にもなりかねないので,その時の視界は目的地に無事着くまでの必要な情報を得るために使われる部分が多いと思います。一方で,休日にその道をゆっくりと散歩してみるとどうでしょうか。景色がゆっくりと動くので,「あ,ここに新しい家が建っているな」,「公園の花壇にはこんな花が咲いているのか!」など,自転車で走っているのでは意識されていなかったあれこれに気付くことができるようになると思います。きっと自転車に乗っているときにも視界には入っていただろうけれど,ゆっくりと観察してみないと現れない気づきというのが認識されるのです。なんだか,ぼんやりと曖昧に映っていた映像が,輪郭がより鮮明に,色使いも鮮やかに見ることができるような,そんな感覚でしょうか。

 感情をしたためる作業についても同様のことが起こっていると私は思います。自分の中に存在するであろう無限の感情を景色だとして,その景色を歩きながらゆっくりと流れゆくままに観察し,書き記すという過程がふまれています。日常生活を送っていく中では視界には入っても取りこぼして忘れ去られてしまいそうな物思いが,言語化して文字にすることでそこに留めて存在を残すことになるではないでしょうか。

 「私の日記〜映画の感想を添えて〜」は,決して読みやすい文章でもなければ美しい文章でもありません。けれど,美しい文章に整えようとすると削ぎ落されたかもしれない表現も残っているため,恰好はつかないけれどその時の感情をダイレクトに描写することができているように思えます。なので,文章を読んでみると『読み辛いけど,リアルだな…』というような感想をいつも抱きます。そして,そのリアルさに感情をしたためることの価値があるのではないかと私は感じています。

 ここまでで,私が自身の感情を書き記したくなる理由の行き着く答えは,“自分に関する存在のあれこれを残すことができる”というところに落ち着きそうです。

 そして,感情を書き記す作業は精神分析的な場と重なる部分もあるように感じられます。

 精神分析的な作業では,語り合いの中で一人の人間の人生,生き様を残す作業をしているように思います。必ずしもその場で文字を書いて物理的に残されるわけではありませんが,被分析者は分析者との対話の中で自分の存在を言葉にして残していくことになっているのかもしれません。そして,今まで意識に上っていなかった思考や感情に触れ,自分自身をより深く知っていくことになるのだろうと思います。

 精神分析過程において,自分にとって都合の良いものばかりが見出されるわけではないでしょう。視界に入れておきたくなかったことにまで気付くことも時にはあると思います。目を瞑りたくなるものもあるでしょうけれど,流れゆく景色のまま描写し続けるということで,新しく見えてくる人生の一片に出会えるのかもしれないとも思えます。

 最後にですが,最近「パリタクシー」という映画を観ました。今回のコラムを書くきっかけにもなった映画であるので,あらすじを書き記して終わりたいと思います。

 あるパリの男性タクシー運転手シャルルは,仕事もお金もなくなりそうなのに加え,家族にも見放されそうな状況でした。そんな絶望の淵に立たされている彼はどこかふてぶてしく,荒々しい。そんな中,ある92歳のマドレーヌというマダムからの依頼で,パリの反対側にある介護施設へドライブをすることになります。その途中,マドレーヌの“ねぇ,寄り道してくれない?”という言葉をきっかけに彼女が生きた人生を振り返りながらパリの街を共に辿ることになります。そしてこの二人は,ただのドライブではなくて,マドレーヌの様々な過去が情景とリンクしながら臨場感をもって体験されることになっていきます。人生の”寄り道”をしていく最中の二人はその後,,,

 この映画はほとんどを二人芝居で繰り広げられるのですが,マドレーヌの人生にシャルルと一緒に相乗りをさせてもらっているような気分になれる映画です。シャルルとマドレーヌの二人が,車窓を眺めながら人生を振り返っていく様においても少し精神分析と重なる部分があるように思いましたが,長くなりそうなのでまたどこかの機会に文章に残そうと思います。

 興味がある方はぜひご覧になってくださいね。

(文責:守屋彩加)

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