臨床コラム 構造,機能,現象

 心理職は専門職なので,勉強し続けなければならない。なにを勉強とするのか,どこからどこまで勉強するのか,といったことは人によって違っている。自分だけで勉強することには限界もある。人の考えを通して自分の理解を深められることもよくあるので,心理職はしょっちゅう勉強会や研究会を主催したり,参加したりして,主体的に議論をしている(たぶん)。そのような生活をしているので,勉強することがそのまま生きることの一部として食い込んでいる。だんだん自分が勉強しているのか,遊んでいるのかもわからなくなって,生きること-遊ぶこと-学ぶこと,はどれも同じことであると気付くようになる(たぶん)。

 僕もそういうことをしていて,それが生活の一部になっている。そんなにまじめなほうでもないので,たくさんはしていないし,休んだり,サボったりもする。皆勤賞をとるよりも,そのように自己調節できることのほうが,相対的には大事だと思っているけれども,何が大事かは人による。

 ここまでが前置きである。

 そんなわけで,少し前にあるところでの研究会で,僕はなにかを学ぶときに,「構造と機能と現象をそれぞれ分けて考えていること」に気付いた。それはなにかについて議論している最中のことであり,したがって僕がひとりで気付いたのではなく,その会という場や集団において気付くことができたものなので,誰に手柄でもあるわけでもない。ただ僕は,そのように自分が考えていることについて,知っていて,わかっていたのだけれども,まだ考えたことがなかった。精神分析では,考えられていない考え(Bion)とか未思考の知(Bollas)とも言ったりして,「わかっている」という言葉はそこで止まっている静的な状態であることを描いている。それはさておき,ここでの本筋は,この気付きの中身についてである。

 構造,機能,現象。これをそれぞれのカテゴリとして考えてみる。

 あるものやあることが,これらのカテゴリのどこかに位置と仮定するという考えを,なぜ自分が持っているのか。そこにはいろんな経験や知識の吸収が,作用しているのだろう。それなので,僕と同じように考える必要はまったくない。こう考えればなにかがうまくいくわけでもない。ある人は「自分にはできない」と思うかもしれないし,「それ以外のカテゴリで考えることもできる」と思うかもしれない。それはそれでいい。それはこの文章を読んだ人にもたらされた現象である。

 たとえば,冷蔵庫を例にしてみる。冷蔵庫の基本的な構造は,冷蔵室や冷凍室である。最近は部屋ごとの役割も多彩になっていて,製氷室や野菜室に留まらず,真空室や特別冷凍室などもある。これが冷蔵庫の構造にあたる。さらにこの構造を成す前提として,冷却装置が不可欠だが,これもまたひとつの構造を持って作動している。これらが冷蔵庫の構造である。次に機能だけれど,ここには,冷蔵庫を必要とする僕たちの動機と関わっている。冷蔵庫の機能は,「常温では不可能な期間を超えて食材を安全に貯蔵・保存すること」である。このことによって,さまざまな生活の利便性と安全性が得られる。あんなに場所を取る邪魔な箱をわざわざ家の片隅に陣取らせることや経済的コストと引き換えにしているのは,この機能に対してである。そしてこの機能を果たすために必要な現象として,「冷え」がある。冷たいというのは物理的な,熱現象におけるひとつの状態である。つまり冷蔵庫とは,「冷温という熱力学的現象を利用する構造を設えて,食材を安全に長期保存する機能を有した箱である」と表現することができる。

 こんなふうに,構造,機能,現象,という三つがあることを含めて考えておくと,自分が何について考えているのか,気になっているのかが,少し見やすくなると思う。

 もう少し例を重ねていく。波というのは,現象である。海水が波によって上下していたり,打ち寄せてきたりする,あの海水面の高低変化を生む運動としての波は,物質ではなく,現象である。海水という,水に塩化ナトリウムやら塩化マグネシウムやらが溶け込んでいる物質構造があり,そこに波という変化の伝播現象を示すことを,ひとことで波と表現している。波には海の波,すなわち水面波ばかりでなく,音の波長の音波,光の波長の電磁波などがあるように,波とは現象のひとつである。だから,「波とは海水が上下する運動のこという」というのは,正しいが不十分でもある。この波という現象がもつ機能は,たとえば人間を主体にして考えるか,自然や地球を主体にして考えるかで,説明の水準が異なっているので,好きに考えてみたらいいと思う。

 こんなふうに,構造と機能と現象という観点を持ってみると,いまなにについて考えたいのか,考えているのかが少しクリアになったり,その過程で生じるズレなどを修正しやすくなるかもしれない。繰り返しだけれど,このように考えることが良いとか,正しいというわけではない。

 学問的な文脈に移してみると,機能が構造の前提になり,ある機能が必要なので構造が設えられるという場合,それは機能主義的である。逆に,ある構造があるからこそそこに機能が与えられる,構造が機能の必要条件になるというときには,構造主義的である。さらに,構造と機能を理解するために,なにが起こっているのかという現象理解から出発するときは,現象主義的である(ちなみに,ナントカ主義,という言葉が多用されて議論がなされるのを,僕は好まないし,衒学的だとか,いまふうに言えばマウント的だという誹りも免れないかもしれないし,そもそも言葉が難しいので意味があまりわからない。同様に,ナントカイズムだとか,聞きなれない横文字とかも苦手である。アジェンダとかバッファとか)。そのくらい,これらの言葉の使われ方はたいへんカタイ。カタイけれど,自分に馴染む形で,簡単に考えてみることもできる。

 心理的な面も同じことである。心理学の理論,精神分析の理論を学ぶときにも,大ざっぱには,構造と機能と現象の話が行きつ戻りつ論じられているように思う。このあたりは,理論や概念によってけっこう違っているし,僕自身も十分にわかっていることは少ないので,このような視点を足がかりに学んでいくしかないのだろう。

 ちなみに,「詩」は,言語という表現方法を踏襲しながらも,かならずしも言語的な構造と機能と現象の原則に則ってはいない。普段の会話のような言葉遣いでは,詩を書くことはできないからだ。むしろ「夢」のような,一見するとわけのわからないつながりや展開によってでき上がっている視覚表象に近い。そして夢は,「映画」とも似ている。映画は,見ているこちらが場面と場面を繋ぎながらストーリーを構成する作業を必要とする。たとえば,夜のある住宅の一室で二人の男性が銃を撃ち合い,一方が倒れ伏したところで,場面が暗転し,今度は女性がスーパーで買い物をしているシーンに切り替わる。この場面転換には,作者たちの意図があり,撃ち合う男性たちと買い物をする女性との関係などを,こちらは考えることになる。映画は,次の瞬間には別の場所,別の日時,別の人物,別の視点などにシーンが切り替わることの連続によってできている。これは夢の構造とほとんど同じである。日常の僕たちの生活において,夢や映画のようにシーンが切り替わることはない。詩や映画や夢は,それぞれ似たような構造を持っている。映画や詩は,人為的な夢であるとも言えるかもしれない。それでは,機能と現象においては,どうだろうか。いろいろ考えてみたら面白いかもしれないので,ちょっと考えてみたい。

(文責:平野(淺田)慎太郎)

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